誰しもが光であり、陰である ―すずめの戸締まりの感想―
遅ればせながら、『すずめの戸締まり』を観てきました~~~~~~!!!!!
良かった、と一言で表すには複雑で、だからといって言葉を尽くせばいいかと問われれば、それは違うと思う、そんな感想です。
ただ、誰かにはこのシーンが心に触れるだろう、誰かにはこの人物の心象が胸に響くだろう、誰かはこの物語を直視できないだろう、と、多種多様な感想を持つことが想像できる、そんな作品でした。
※もう、それは無遠慮に、配慮などせずにネタバレをします。ご了承ください。
※映画+友人に『芹澤のものがたり』を朗読してもらったのを聴いた程度の知識です。
宗像草太という人間
出オチですが、私は宗像草太に落ちました。
予告の時点で、めちゃくちゃルックスが好きでした(ヒント:ジブリの中ではハウルが好きです)。
長髪の、なんだか気怠い雰囲気を醸し出した、ちょっと面倒くさそうな青年。
宗像草太の第一印象はこうでした。
でも、実際の中身は異なって、それこそ第一印象のそのままでいてくれたほうが楽だったのではないか、と思うくらいには私の琴線に触れる存在でしかなかった。
真っ直ぐで、自分の役割を認識していて、それに疑問も抱かずに、宿命を背負って生きている。
どうして、彼に落ちないことなどあるだろうか?(いや、ない)。
眩しすぎるんよ。それこそ、目も眩むくらいの、まばゆさ。
閉じ師としての運命を定められて生まれてきた。それを受け入れて生きる姿は、凡人にとっては眩しすぎる。受け入れて生きることこそが、ノブレス・オブリージュだとでも言わんがように。
もしかしたら、宗像草太も自分の生き方に疑問を抱いたこともあっただろう。
閉じ師として生きたくない、と思ったこともあったかもしれない。
けれど、現在の彼が選択したのは、『閉じ師として生き、教師の夢を追う』ことだった。
それだけで、とても強いんです。心が強い。
宿命を受け入れながら、けれども自分の夢を叶えようと、両方を欲しがる欲張りになる選択をしてしまった。
選択とは、捨てることを、まず連想してしまいます。だって、欲しいを全て叶えられるほどの力も強さも、私は持っていないから。
宗像草太は覚悟を持って生きている。
弱冠22歳の青年が背負うには、重すぎるもの。
一体何が、彼をそう駆り立てるのだろうか、と思ってしまった。
要石となった(経験した)あとも、宗像草太にとっては閉じ師である自分と、扉やミミズ、常世の存在を知らない(感知できない)只人という感覚は消えないと思います。
けれど、それまでは彼自身の中での生きる意味において、閉じ師>教師、であったことは否めないと思います。誰に感知されなくてもいい、それが閉じ師の使命だから、と心の隅には、どこか諦めがあったのかもしれません。
でも、鈴芽と出会い、「すごいことをしてる!」と鈴芽に認められ、自分の運命を真正面から肯定してくれる存在と出会った。きっと、これは彼にとってかなりの衝撃だったのかもしれません。それこそ、自分の価値観を打ち砕いて、諦めを吹き飛ばすくらいの、とても強い衝撃。
芹澤のものがたりで、友人の芹澤にさえ、閉じ師のことは言っていない。「家業」とは言っているけれど、「いつか聞いてくれるか」と、はぐらかしたまま。
言わないではなく、言えないんだと思います。どうして、言えないのかまでは、ちょっとすずめの戸締まりに触れて日の浅い私には分かりませんが、きっと、ただならぬ思いがあるんだと思います。
そんな状態のときに、鈴芽と出会った。閉じ師のことを知り、共に立ち向かう相手ができた。
だからこそ、「まだ生きたい」と願ってしまった。
閉じ師としてのノブレス・オブリージュを振り払い、只人と同じ欲を、持ってしまった。
ですが、だからといって彼がただの人となったかと言われれば、違う。
これでやっと、宗像草太という人間に成れたのかもしれない、と思いました。
彼が歩いてきた道は、どんな道だったのでしょう。
彼が見てきた景色は、どんな色をしていたのでしょう。
彼が触れた愛は、どんな形をしていたのでしょう。
今の私は、宗像草太がどのように生きてきたのか、それを知りたい思いしかありません。
私の癖として、神聖視をしてしまう傾向があります。迂闊に触れられない、と思いがちです。
だからこそ、宗像草太も閉じ師である前に、人間だったんだ、ということを知りたい。
映画の中では、あまり彼の情報は明らかとなっていません。でも、そこから、少しだけ、彼という存在が見えてくる気がします。
育ての親である、祖父
一人暮らしのアパート
芹澤朋也という友人
ものは多いが、きちんと片付けられた部屋
きっと几帳面で整理整頓ができ、面倒見のいい性格
関わった人から愛される、人の良さ
書き出して思った。あーーーーー、こういうところが好きなんだよ……。
急に田舎の母ちゃんムーヴをかますんですけど、一人暮らしの大学生、という時点で、「ちゃんとご飯食べているのかな」とか、「どんなご飯を食べているのかな」とか、「健康に気を使ってくれる人はいるのかな」とか、考えが止まらない。
まあ、ご飯に関しては、芹澤のものがたりである程度の料理ができるとのこと。やるじゃん、草太。
きっと、きっちりとした生活を送っていたんでしょう。規則正しく、健康的に、真面目に生きる。ただ単に、浮ついた彼を想像できないだけではあるんですけど。
少し天然で真面目な宗像草太。そういうところが、彼の魅力をより引き立てる、愛される所以なのかもしれません。
余談ですが、廃墟のジェットコースターで「体が椅子になじんできたぞ!」については、個人的にツボです。いや、違うやろ。今、気にするところはそこじゃないねんて、と思いました。
芹澤朋也に見える世界
変に茶化すつもりではないんですが、すずめの戸締まりにおいて、芹澤朋也という男の立ち位置って、「水曜どうでしょうの、またしても何も知らない大泉洋」と同じだな、と思いました。
いや、詳しくは水曜どうでしょうを存じ上げているわけではないんです。ネットミーム化したくらいの知識だと思ってください。でも芹澤さん、どの場面でも訳知り顔で、実際は『何も知らない』んですよ。
彼、友人の宗像草太のところに行こうとするのに、彼の家業も知らないんです。
「いいなぁ、草太」と言う割に、何も知らない。
でも、知っているから親しいのか、と言われれば、たぶん芹澤朋也と宗像草太の関係性は違う。
関係の親密性は情報量とは比例しない、ということを示すいい例だと思います。
宗像草太にとって芹澤朋也とは、『閉じ師』というもの抜きで付き合える友人なのだろうと思います。宗像草太のところで先述したように、宗像草太は閉じ師であることをカムアウトすることを躊躇しています。芹澤朋也との間に「家業」という枠はあっても、「閉じ師」はない。
対して、芹澤朋也にとって、宗像草太とは。堕ちていたところから引き上げてくれた存在。「お前は自分の扱いが雑すぎる」と、気に掛けてくれた。芹澤朋也は自己肯定感がとても低くて、確固たる『自分』というものがないように思います。今も、宗像草太という存在に流されているだけなのかもしれない。でも、これまでの芹澤朋也の人生を知らない人から、心配してもらえた。それだけ、でも芹澤朋也にとってはそれが衝撃だったのだと思います。
ただの友人。
それが、二人にとっては、どれだけかけがえがないほど尊いものなのでしょうか。
それは本人たちにしか分からないことだとは思います。でも、少なくとも芹澤朋也にとって宗像草太は、事情はよく分からないけれど、東北まで車を走らせるほどの友人なんだと、そう思います。
はーーーー、眩しいかよ。青春だよ。
勝手に言っていますが、芹澤朋也はどう頑張っても、『只人』代表なんです。言葉を変えれば、その他大勢の代表。
何も見えないし、何が起こっているのかも知らない。何かがおかしいということは分かるけれど、何もできない。そんな私達の代表。
でも、いろいろな事に気付かせてくれる。
それが、「綺麗な場所だな」のシーン。
鈴芽ちゃんにとっては、昔は日常の風景であり、今は廃墟であり、封じ込めた記憶の場所。そこに『綺麗』という感想はない。
だけど、芹澤朋也にとっては初めての地で、緑が豊かで、今この状態は『綺麗』と思った。
過去はその人の物。現在は現在でしかなく、目の前に広がっているただそれだけなんだ、と強く感じたシーンです。人それぞれで見え方が違う、と改めて突きつけられた感じがしました。
少し話が逸れましたが、芹澤朋也の突き詰められた凡人感に、私はどうしようもなく愛おしさを感じてしまいました。めっちゃいいヤツなんだよ…幸せになってくれ…
長くなりそうなので、鈴芽ちゃん、環さんについては、また後日。