絶望は誰を選ぶのか、希望は誰に選ばれるのか:メサイア全般の感想その①
はいどうも~~~!!!!!!
軽率にメサイア沼の様子を見に行って案の定全身ドボンした人間です~~~!!!!!!
軽率に沼りやすいことは重々承知しているんです。自分でも尻軽だな、と思いますが、メサイアは違うん!です!!メサイアはたぶん、アレ、誰でも沼に落ちるやばい奴や……
ここ数日、メサイアの履修を進めてて、完全にメサイアにハマり、どうしてもメサイアについて言語化したい、書きたい、と思ったただの自己満足のブログです。
まだ見てない作品もあるけど、ガンガンにネタバレしていきますので、ご了承ください……。じゃないと、この思いは書けねえや……。
私とメサイアとの出会い
2019年2月14日、忘れもしないバレンタインデー。
その日が私とメサイアとの出会いです。
そもそも、12月くらいにたまたまチケットサイト見てると、黄昏の一般チケットが発売されていました。しかもサンシャイン劇場のセンブロ1桁列が、発売されてるじゃないですか。
メサイア知らないけど、なんかもっくん(太田基裕さん)とか、井澤さん、杉江くんが出てたな~、廣瀬大介くんも出てたっけ?くらいの知識で、でも熱心なファンが多いイメージだな、くらいの感覚でした。ただ、その時期、まじで仕事がしんどくて(ずっとしんどいけど)、2ヶ月後だとしても何か楽しみが欲しい、くらいの軽い気持ちでチケットを取ったんです。
これがすべての始まりでした。
そして、特に予習もせず、『サクラ』っていうスパイ候補生がメインなんやな~、くらいのめちゃくちゃ軽い知識で観に行きました。
いや、インプリンティング(刷り込み)ってあるじゃないですか?あの、生まれたての雛が最初に見た物を親と思い込むあの習性。
最初に観たのが『メサイアトワイライトー黄昏の荒野ー』だと、もう、言いたいことは分かりますね?
私は黄昏のストーリーを、サリュートの生き様を、メサイアの親だと思い込んでしまいましたよね。
黄昏は黄昏で一本ブログが書けるくらい思い入れとか感想とかあるんですけど、観終わったあとの私の感想がこちら
騙されたと思って、みんなメサイア見て。
— 最中いすこ@銀牙ロス🐶 (@cho_to_issn) 2019年2月14日
ほんと、そうなんだよな…ってくらいその思いしかありませんでした。
というのも、まーなんにも分からない状態だからこそ、サリュートとスーク、雛森と小暮、御池と杉浦の関係性がそれぞれ超絶エモかったし、めっちゃ殺陣かっこよかったし、迫力がマジですごすぎて、語彙力がただでさえないのに、IQ3くらいまで知能が下がって、ただ「かっこいい…観て…」しか言えない人間に成り下がりました。
ここで第一次メサイアブームが私の中で巻き起こり、その勢いのまま、鋼ノ章と暁乃刻を購入。
鋼だけ観て、そして秋の黎明乃刻のチケ取りだけして、他の舞台があったから気がそれてたんですけど、
7月11日!
黄昏のDVD発売日!
もちろん買いましたし、もちろん観ました。その時のツイートがこちら
メサイア黄昏のDVDやっと見たけど、やっぱり最後はやばいくらい泣く……いや、まじでメサイアの刻はあんまりよく知らないけど、とにかく黄昏はサリュートスークの解釈が性癖とど一致すぎてとにかく涙腺が馬鹿になるくらいやばい。
— 最中いすこ@銀牙ロス🐶 (@cho_to_issn) 2019年7月13日
くそでか感情になりすぎて、やばい連発してます。
それくらいやばい。めっちゃ泣いた。むせび泣いた。劇場であんなに泣かなくて良かった…という安心感と、これ、2回目の方が威力やばいから1回の観劇で良かった…という謎の安心感を感じるくらい、めっちゃ泣いた。
ここから第二次メサイアブームが巻き起こります。
そして、その日のうちに、紫微ノ章、漆黒ノ章、銅ノ章、悠久乃刻、月詠乃刻、幻夜乃刻、極夜をポチりました。でも、まだ紫微と月詠は届いてません……
それを観てからだと、これまでは救済に思えていたメサイアシステムが、一気に残酷さを纏っているように見えました。
特に、漆黒、銅を観たあたりで
『メサイアシステムはただの救済ではない』
と感じ始めたんですけど、まあ脚本と演出が違うのでそう思っているだけかもしれませんが……。
でも、メサイア全体の根っこに漂うどことないメリバ感。
メリバ好きだから、そういうのを勝手に妄想してしまって、一人でキャッキャしています。
そして、このブログに繋がります。
メサイアというシステムが見せる世界
メサイアシステムとは
メサイアについて知っている方がこのブログを見ているだろう、という前提で進めてるので、ざっくりと。
大まかに言うと、条約により世界的な軍縮が進み、武力による戦争から、情報ー密偵・間諜ーによる戦争へと姿を変えた世界が舞台。
日本は武力放棄をしているため表面上はスパイはいないが、超法規的な存在として警察省警備局特別公安五係、通称『サクラ』というスパイが闇に潜んでいた。
『サクラ』は国籍も戸籍も抹消され、国からは一度死んだ者として扱われており、そのかわり「特別殺人権」を持っている。
そのサクラを養成する機関が、通称『チャーチ』。
チャーチにいる間、二人一組のバディが組まれ、その相棒のことが『メサイア』と呼ばれる。
『サクラ』には絶対の規律が存在する。
『サクラ』は、『チャーチ』について沈黙を守らなければならない。
『サクラ』は、『チャーチ』を出れば二度と接触してはならない。
『サクラ』は、任務を失敗した『サクラ』を救助してはならない。
『サクラ』は、友人や恋人になってはならない。
ただ、一人の例外を除いて。
それが、『メサイア』
こんなん嫌いなオタクいないでしょ???(オタク特有のくそでか主語)
サクラになるための条件に、『絶望』があること。
それぞれサクラ(サクラ候補生)は、過去に大きな絶望を、孤独を背負っており、世界から、日本から存在を見離されている中、自分のことを救ってくれる権利を持つのが、たった一人の相棒、メサイア(救世主)。
この唯一無二の存在となるに至る物語を描くのが、メサイア。※一部の作品は除く
メサイアシステムの闇
※勝手に闇、と言っていますが、すべて私の勝手な妄想です。
世界から存在を抹消され、国からも見離され、任務に失敗したら潔くサクラの様に散っていくことを、ただ世界を救うために命を投げ出した存在が『サクラ』。
そのサクラを唯一救える存在が、メサイア。
聞こえはいいですけど、裏を返せばメサイアが裏切れば、世界に誰も自分を救う者はいなくなる、とても脆い関係性。
チャーチでスパイとしての基礎を得るとともに、メサイアとの関係を築いていく。
そこで、”メサイアという存在を唯一の光を信じ、サクラとして生きていく”覚悟を求められる。
んですが、私は銅ノ章を観た時点で、なんとなく、
『お互いを救う存在としてメサイアという理由は、日本を裏切らない・裏切れないようにするための体のいい隠れ蓑じゃないか』
と思ってしまったんです。
→と思わざるを得ないんですよ。一嶋さんは本心では救われる存在としてメサイアを定義してるとは思うけど、国の上層部的には寝返らないようにするための枷でしかない。サクラたちはそれを知らず、ただ、メサイアのために生きようとする。残酷じゃん…(すべて妄想)
— 最中いすこ@銀牙ロス🐶 (@cho_to_issn) 2019年7月18日
なんでそう思ったのか言語化するのは難しいんですが、任務の時に必ずメサイアが相手に捕まったり、敵側に回ったりが非常に多いメサイアの中で、「俺が、俺だけがアイツを救える」であったり、「アイツを救えるのはメサイアだけだ」と言われたり、というシーンを見るたびに、メサイアに対する依存性を高めているように感じてしまったんです。
サクラの彼らは、一度は必ず人生に絶望し社会的に死んだ存在。その中で、自身を救ってくれる唯一の存在はきっと一筋の光に見えるだろうし、どんなに強くあろうとも元は一般人、その光に縋ってしまうだろうと思うんですね。
綺麗事だけでは済まされない世界事情。小説版のメサイアも読んでいる方なら分かると思いますが、特別公安五係は非常に危うい立場。魑魅魍魎が跋扈する中でなんとか存続できているんです。ほら、ほぼ毎回、サクラの存続の危機に陥っているのがその証拠です。
本来ならボスホートのように、バディなど組まず全員が敵、というのでも良かったでしょう。
しかし、国力が弱い日本。一人でも北方連合等敵国に渡ってしまっては情報は漏れるわ、戦力は減るわ、の踏んだり蹴ったりになるのは火を見るよりも明らか。
では、どうすればサクラは日本を裏切らないか?
裏切れない理由を作れば良い。
唯一の希望を、救世主と組ませれば、きっと相手を生かすために寝返らず日本のために働くだろう、と考えた。
そして作られた制度が、『メサイア』。
……とすべて妄想ですが、こう考えてしまうのも自然の流れじゃないかな、と思います。
スパイとして育てるために戸籍さえ抹消してしまう制度が、情けをかけると思いますか?私はそうは思いません。
あくまで、たった一人の救世主となる、メサイアがいることを動機にサクラとして活動できる、というのは副産物的なものだと思います。絶望を経験したサクラには、その関係性の脆さが見えにくく、とても甘美なものに映りそうです。
でも、きっと一嶋係長はメサイアはお互いを救う救世主たれ、と本心で思っていそうです。自らの身を擲ってまで、特別公安五係を守ろうとする一嶋さんなら、きっとそうであってほしいし、サクラ・チャーチに関わる人達は、それを知りながらも救いのない世界のたった一つの希望として、メサイアシステムを続けているんだと、私は信じています。
有賀涼という男
有賀涼とは不器用な人間だ
鋼、深紅、暁、悠久と観てきた中で、有賀涼という男の印象が大きく変わっていきました。そこにはメサイアである加々美いつきとの関係性の変化も大きく影響しています。
有賀涼は、非常に人間的には不器用な人間だと思います。
そもそも生い立ちから、人間性というものを重視されない世界で、ただの殺戮マシンとして育ってきた彼に、他者と関わる能力はそんなに備わっていないと思いますが、それでも、本質的には不器用なんだと思います。
鋼の間宮星廉とのメサイア。
深紅~悠久の加々美いつきとのメサイア。
第三の闇での神門シン(ハングドマン)との関係。
メサイアの中では(個人的に)珍しく様々な人物と関係性があるのが、有賀涼。神門シンは幼少期に過ごした関係なので少し省くとしても、間宮星廉、加々美いつき、両者ともに有賀涼は距離感を掴みかねている描写が見られます。
しかし、有賀涼は真っ直ぐで、ただ直向きに前を向いており、間宮に対しても、加々美に対しても相手を認めているんですが、なにせ彼は不器用。うまく伝わりませんし、メサイアとして互いに守り守られる存在ではなく、間宮に対しては『救われた者』、加々美は『失うかもしれない者』としての陰を重ねて見ています。それが、有賀涼が彼らの本当のメサイアとして一歩踏み出すのを躊躇させる要因となっているように感じます。
有賀涼は優しいが、不器用だからこそ自己犠牲を厭わない。
具体的にそのような描写があるわけではありません。ですが、間宮との関係においては非常に自己犠牲の精神が見えるような気がします。間宮に救われた男と、テロリズムによって絶望に落とされた男。有賀涼は間宮に一度救われた存在であるから、間宮に対してはメサイア以上の救いの手を差し伸べようとします。言葉では言わないけれど、態度で示す。まるで昭和の父のようですね(笑)。
本来は、有賀涼はスパイには不向きな人間だと思っています。真っ直ぐすぎるんです。しかし、その彼を闇の中で生きるようにした存在が、かつてのメサイアである間宮星廉、そして今のメサイアの加々美いつきだと思っています。
有賀涼とメサイア
有賀涼は、メサイアとの関わりを通して、人間として大きな成長を遂げた一人だと思います。
特に、加々美いつきとの出会いは、まさに運命を変えたと言っても過言ではないほど。
個人的に、イスンスンのくだりは笑えるけど、ファーストネームを呼べない有賀涼という人物像がなければ、加々美を「いつき」と呼ぶインパクトはなかったと思います。「いつき」と呼んだ瞬間、来るのは分かってました、きっとここで「いつき」と呼ぶんだろうな、と思ってました。でも、身構えてもあの衝撃は大きかったです。あの一言で、有賀涼は加々美いつきを本当のメサイアとして受け入れるための壁を乗り越えられたんだと思います。
失うことは怖いことです。一度は自らの手で、自身を救った者であり、自身が唯一自らの意思で救える者の命を奪った。その経験は有賀涼の中でブレーキとなっていたと思います。だから、加々美に対しては相棒であろうとするが、今一歩踏み込めなかった。それを弱さだと思っていた。でも、それは強くなるためには必要なことで、弱さを乗り越えた先には”加々美いつきのメサイア”としての覚悟があった。
急に語彙力がなくなりますが、めちゃくちゃメサいですよね……。死線をくぐり抜けてきた相手と相棒としての絆が築かれる瞬間を私が観て良いのか、と少し背徳的な気持ちになりました(笑)
個人的に、有賀涼はメサイアシステムに囚われた人間だと思っています。間宮星廉はある意味で、メサイアの有賀涼に殺されることで救われました。加々美いつきは、有賀涼の勇気ある一歩によって自我を取り戻しました。そして、有賀涼は、間宮星廉と加々美いつきによって記憶を取り戻し、争いのない悠久の平和のために救われました。
どうあがいても、有賀涼はメサイアシステムによって絶望を与えられ、そして希望を託されました。黎明乃刻を迎えた時点での有賀涼には、世界はどのように映っているのでしょう。
絶望か。希望か。それとも。
結論:有賀涼には2人のメサイアがいる
加々美いつきという存在
加々美いつき=月
月詠はまだ見ていないので、公式でそう言われているかどうかは知りません。単なる私の勝手に抱いている印象です。
加々美いつきって、はちゃめちゃはっぴーな明るいパリピじゃないですか?(語弊)
あくまでも、メサイアの中での話ですよ?加々美以上に明るい人間いますか?私は見たことないです。あ、百瀬係長代理は除きます。百瀬ちゃんかわいいよね、コニーさんかわいいし好きです。
でも、サクラ候補生というからにはなにか重い過去があるのは当たり前で。しかも、その過去が思っていた以上に重い。お前、よくそんなに明るく振る舞えたな…と思うくらいには思い過去でしたね。脳にマイプロチップとか、両親を殺した叔父に育てられ、挙げ句の果てには叔父の策略のためにチャーチに放り込まれるなんて、常人なら発狂していてもおかしくないレベルのしんどい過去をお持ちの人物です。
明るい加々美いつきですが、やはり彼だって人間であり、強くはない。
『依存性パーソナリティ障害』
加々美いつきを語る上で外せない彼の特性。
彼にとって、雲井蓮は世界の全てだった。なんでも、「叔父さん」を基準にして生きてしまうように教育されていました。その彼が、策略とはいえ、放り込まれたチャーチにて、依存から脱却する存在と出会います。
それが、有賀涼。
深紅の棒付きキャンディを子どもに「必要ないから」とあげるシーンは印象深いです。
このように、明るく見える加々美いつきですが、いつだって加々美いつきに必要だったのは依存できる他者、存在でした。悠久でもありましたが、加々美いつきには能動性がありませんでした。自分の意志で進んできた道は、これまでなかった。振り返れば、誰かの後をついて行っただけのグネグネと歪んだ道で。自らを自らと規定する基準など持ち合わせていませんでした。
彼は、他人の光を受けて初めて存在を認められる、夜空に浮かぶ月のような存在だと思っています。
その彼を一際強く輝かせ、自ら光を放つ存在へと導いたのが、メサイアの有賀涼。
有賀涼は加々美いつきとは反対に、自らの意思で生きてきた人間。表情が暗かろうと、不器用だろうと、有賀涼は太陽のように存在の光を放ち続けています。有賀涼という太陽に照らされ続けた加々美いつきは、有賀涼に対しては依存ではなく、対等な存在であり、命を預け預かる存在となろうとし、初めて自分の意思で「世界に争いのない悠久の平和」を求めるためにサクラとして生きることを決めたのです。
加々美いつきの純粋さ
一見するとふてぶてしいように見える加々美いつきですが、彼は決して意識してふてぶてしいわけではないような気がします。
先述したように、加々美いつきには自らの行動を規定する意思がありませんでした。それは情がない分ある意味とても合理的であり、だからこそスパイの素質としては優秀だったのだと思います。
それが、有賀涼のメサイアとなることで人間性が生まれることで変わっていきます。
以前、大学での講義で、
“何かを得るということは、何かを失うことと同義だ”
と教授が言っていました。これはメサイアに関わらず、非常に的を得ている言葉だと思います。
幸せを知る代わりに、これまで日常に思えていた生活が日常に思えなくなる
希望を手に入れたら、その代わりに希望を捨てたくなくて行動力がなくなった
依存する楽さの代償は、自らの意思を放棄すること
加々美いつきは有賀涼と出会い人間性と自分の意思を手に入れました。しかし、その代償として合理的な行動力を失ってしまいました。
ですが、果たして失うことは悪いことだけでしょうか?
加々美いつきにとってこれまでの最大の武器は大胆不敵さであり合理性でしたが、メサイアシステムには不向きな強みでした。それよりも、現場のサクラに求められるのは相手への思いの強さであり、自らの意思を持ってメサイアだけが持っている権利を行使する意思です。
加々美いつきは、有賀涼と出会うことで初めてサクラとなれたのです。
先述もした通り、有賀涼と加々美いつきは非常に相性がいいと考えています。お互いのパーソナル特性という部分もあると思いますが、もっと単純に、彼らは純粋なんだと思います。
有賀涼は不器用さ故の純粋さ。
加々美いつきは無知故の純粋さ。
お互いの純粋は違いますが、彼らは非常に似ているように思います。
暁での「いつき」呼びをするために練習する有賀涼。
悠久での有賀涼の以前のメサイアである間宮星廉が得意だったヴァイオリンを習得しようとする加々美いつき。
……思い出すだけでしんどいです。
誰もいない空間で、目の前にいない相棒に呼びかけるための「いつき」。初めて名前を呼べた時、どのような気持ちになったのでしょう。本人を前に、言えなかったことを繰り返す度に、どれほど自身に落胆したのでしょう。ネクロマンサーに乗っ取られた加々美を前にした時、有賀涼は一体何を考えたのでしょう。
なぜ、加々美いつきはヴァイオリンを練習したのでしょう。どんな気持ちで手に取ったのでしょう。自身のメサイアを目覚めさせるために、前のメサイアの幻影を頼るときの心境はどれほどだったことでしょう。
有賀涼と加々美いつきは、共にその純粋さ故にお互いが強く引かれ合い、影響し合い、お互いがお互いのメサイアになるために必要最低限のモノを手に入れて、余分なモノはすべて削ぎ落とした、正にお互いのためだけに、お互いの願いのためだけに存在する2人になったのではないか、と感じています。
結論:有賀涼と加々美いつきは最小公倍数的な関係
有賀涼と間宮星廉は最大公約数的な関係
(訳:有賀涼と加々美いつきは2人の共通項が最小限の繋がりで十分であり、
有賀涼と間宮星廉は共通項が最大限に必要)
第二世代のサクラたち
白崎護と悠里淮斗
彼らはサクラとならなくても、きっと自然にメサイアになっていたと思っています。ざっくり言えば、彼らは共依存の関係性で、2人の間で世界は完結しています。2人にとっては、どうすればずっとこのまま2人で幸せな世界を手にできるかしかなく、ワールドリフォーミングや日本がどうなろうが些事に過ぎなさそうだと感じてしまいます。
それほどまでに、白崎護にとって世界とは悠里淮斗ですし、悠里淮斗が守りたいものは白崎護ただ一人だけで。
暁の終わり方は、私自身はめちゃくちゃハピエンだと思いましたが、これはメリバだという意見を見て、「そうか、白崎護と悠里淮斗だけが納得した幸せな世界だからメリバに分類されるのか」と素直に思いました。メリバが好き!と公言していますが、どうやら世間と私の中のメリバの定義が違うらしいです……。
それは置いておいて、鋼を観た時はとても白崎・悠里ペアは完成された存在だと感じていました。メサイアとしての理想形のような印象を抱いていました。
ですが、それは理想でも何でもなく、お互いのためだけに力を尽くす、メサイアシステムからは外れた存在だったのかな、と思っています。
メサイアシステムから外れたのが良いとか悪いとかではなく、それが彼らの見つけた答えならば、その答えを誰も覆すことはできないと思います。
白崎護と悠里淮斗と有賀涼と加々美いつき、そして間宮星廉
どんな思惑があろうと、彼らは確かにここに存在しており、共に戦った過去は誰にも変えられません。
絶望の先に見えるのは、希望か。それとも、さらなる絶望か。
ともにメサイアと切り開く世界が、どうか希望に満ち溢れんことを、切に願います。
→その②に続く…